10年前のこの日、母と南武線の駅にいた。最初、大きな揺れに気付かないというか、今まで経験した事の無い揺れに、意味が分からなかった。少し経ち、これは地震だと認識、まず頭に浮かんだのは震源地は何処?どこかで、今のは震度5で、震源地は近くではないという声が聞こえた。
駅構内では駅員さんの誘導で、皆にしゃがむように指示だされ、私たちもその場にしゃがもうとしたが、母が足が痛くてしゃがめないと言う。仕方なく大きな柱のそばで、私がガードしていたら、見知らぬ老婦人も私の腕の下に・・・
駅での用事を済ませ、家に帰る途中、父から電話があり、私たちの無事を確認、そして、私の家にも電話をしたら留守電に繋がったと教えてくれた。ここからが大変で、いつもならワンメーター、タクシーで帰るのだが、駅には一台もタクシーがいない。私の足なら10分程度の所をヨチヨチ歩く母の手を引いて帰った。
いつもなら顧問をしている会社に顔出しをしているのだが、たまたま台所に茶碗を出しに行った時、大きな揺れに遭ったそうな。台所に行かなければ、自室で本の下敷きになっていたかもしれない。
母を何とか無事に家に連れ帰ったので、私も自分の家に戻ろうと、駅に行ったら全ての路線が止まっており、改札口のシャッターが下りているところもあった。
仕方ないので、実家に泊まることにし、我が家に電話をかけたら、娘がスポーツクラブから戻っていた。当時、先代ネコがいたので、私としては一人家に残しておくのが心配だったが、娘がいてくれれば一安心、覚悟を決めて実家に泊まることにした。夕方、母の知り合いが泊まりに来た。夕食後、全員でテレビ中継を見ていた。あまりの事に現実に起こっている認識は無かった。
翌日、電車が動くというので、朝食もそこそこに帰宅した。
10日後に父が他界すると分かっていれば、もっと話をし、ゆっくりしてきたかもしれない。
12日からは、電車も不定期運航だし、父の会社も当然休みだった。午前中、我が家の地区の防災無線が計画停電の有無を放送していた。大体、9時半頃で、その放送を聞いてから実家に電話を入れていた。この時間帯は、いつも父が電話に出て、近況報告(?)、足が弱い母に代わり、朝一に近くのコンビニにパンや牛乳を買いに行っていたそうだ。
父は仕事一筋、お正月の休みも来客があり、結婚以来夫婦二人で10日間も過ごしたのは初めてだった思う。少し認知症が出ていた母と二人、父にとっては充実した生活だったのではないだろうか。
電車も復活し、社会も動き出し、私も実家と行き来できるようになったのを、待っていたかのようにあっさり旅立った。朝の電話の最後に「宜しく頼むよ」といつもの別れの言葉が、本当に最後になり、母を託されてしまった。
震災からの10日間、天から父へのプレゼントの時間だったと私は思っている。
震災に遭われた方々には失礼だが、私は別の意味で忘れられない記憶です。
駅構内では駅員さんの誘導で、皆にしゃがむように指示だされ、私たちもその場にしゃがもうとしたが、母が足が痛くてしゃがめないと言う。仕方なく大きな柱のそばで、私がガードしていたら、見知らぬ老婦人も私の腕の下に・・・
駅での用事を済ませ、家に帰る途中、父から電話があり、私たちの無事を確認、そして、私の家にも電話をしたら留守電に繋がったと教えてくれた。ここからが大変で、いつもならワンメーター、タクシーで帰るのだが、駅には一台もタクシーがいない。私の足なら10分程度の所をヨチヨチ歩く母の手を引いて帰った。
いつもなら顧問をしている会社に顔出しをしているのだが、たまたま台所に茶碗を出しに行った時、大きな揺れに遭ったそうな。台所に行かなければ、自室で本の下敷きになっていたかもしれない。
母を何とか無事に家に連れ帰ったので、私も自分の家に戻ろうと、駅に行ったら全ての路線が止まっており、改札口のシャッターが下りているところもあった。
仕方ないので、実家に泊まることにし、我が家に電話をかけたら、娘がスポーツクラブから戻っていた。当時、先代ネコがいたので、私としては一人家に残しておくのが心配だったが、娘がいてくれれば一安心、覚悟を決めて実家に泊まることにした。夕方、母の知り合いが泊まりに来た。夕食後、全員でテレビ中継を見ていた。あまりの事に現実に起こっている認識は無かった。
翌日、電車が動くというので、朝食もそこそこに帰宅した。
10日後に父が他界すると分かっていれば、もっと話をし、ゆっくりしてきたかもしれない。
12日からは、電車も不定期運航だし、父の会社も当然休みだった。午前中、我が家の地区の防災無線が計画停電の有無を放送していた。大体、9時半頃で、その放送を聞いてから実家に電話を入れていた。この時間帯は、いつも父が電話に出て、近況報告(?)、足が弱い母に代わり、朝一に近くのコンビニにパンや牛乳を買いに行っていたそうだ。
父は仕事一筋、お正月の休みも来客があり、結婚以来夫婦二人で10日間も過ごしたのは初めてだった思う。少し認知症が出ていた母と二人、父にとっては充実した生活だったのではないだろうか。
電車も復活し、社会も動き出し、私も実家と行き来できるようになったのを、待っていたかのようにあっさり旅立った。朝の電話の最後に「宜しく頼むよ」といつもの別れの言葉が、本当に最後になり、母を託されてしまった。
震災からの10日間、天から父へのプレゼントの時間だったと私は思っている。
震災に遭われた方々には失礼だが、私は別の意味で忘れられない記憶です。
コメント
それぞれの人が心に思いを持つ3.11ですね。
お父さんの声、心の耳にずっとありますね。
naochanさんのおっしゃる通り
3月11日は日本中の人が10年前に想いを馳せる日ですね
父は心臓が悪く、お医者さん曰くいつ逝ってもおかしくない状態ではありました。震災後初めて会社に顔を出した帰りだったので、本人なりにケジメを付けて逝ったのでしょう。高齢だったし、特に感傷的になることは無いのですが、3月11日というと思い出してます。
優しいお言葉、ありがとうございます_(._.)_
、
マダムMさんとお父様との震災時の交流、しっとりと読ませて頂きました。
大切な人と会うこと、話すこと、繋がること。
命の重みと共に、改めて人と関わり合うことの大切さを感じました。
そんなことがあったのですね。
お父様と良い時間持てて良かったです。
震災で亡くなった方とお父様のご冥福をお祈りします。
温かいコメントをありがとうございます_(._.)_
父が他界した後で、私が勝手に想像したことで、母には言ってませんし、母から似たような感想は聞いていません(苦笑)
口には出しませんでしたが、一番母のことを気にかけていたのは父ですから、一人残る母の生活に見通しがついたので安心したのでしょう(^.^)